日本刀は「よく切れる」ことで有名です。
切れないものはないと表現されるほど切れ味が鋭く、世界的にも評価が高いのです。
しかし、この記事を読んでいるあなたは
「日本刀はどうして切れ味がいいの?」
「日本刀がよく切れる理由が知りたい」
と、疑問に感じているのではないでしょうか。
そこで今回は、日本刀の切れ味が良い3つの理由について解説していきます。また、よく切れる刀として有名な日本刀や逸話についても紹介していきますね。
この記事を最後まで読めば、日本刀の切れ味が良い秘密について詳しく知れること間違いなしです。
他にも日本刀の歴史や種類、作り方などを知りたい方は以下の記事で解説していますので、ぜひチェックしてみてください。
→【伝統工芸】日本刀の歴史や種類を解説|特徴や愛刀蒐集家も紹介
日本刀の切れ味が良い理由3つ
日本刀の切れ味が良い理由は
- 反りがあることによって力が伝わりやすいから
- 炭素の含有量を均一にしているから
- 優れた構造をしているから(重層構造)
の3つです。
それぞれ詳しく見ていきましょう。
1.反りがあることによって力が伝わりやすいから
日本刀の切れ味が良い理由の1つ目は、反りがあることによって力が伝わりやすいからです。
西洋の刀剣は、反りのない直刀で厚くて太身があり、叩っ切ることに特化しています。
一方、日本刀は薄く細身で刀身が反っている湾刀なのが特徴と言えます。
刀身が反っていることで、振り下ろした際に自然に引き切りを行なうことができ、しかも斬り付けた瞬間の反動をやわらげてくれる効果があるのです。
反りがあることで、意識せずとも自然に引き切りになるためスムーズに力が伝わり、よく切れるという訳ですね。
2.炭素の含有量を均一にしているから
日本刀の切れ味が良い理由の2つ目は、炭素の含有量を均一にしているからです。
日本刀は、「玉鋼」(たまはがね)という素材から作られています。玉鋼の原材料は砂鉄で、たたら製鉄の一方法「けら押し法」によって生成されます。
玉鋼は鍛錬するほど硬くなると言われており、日本刀独自の「折り返し鍛錬」と呼ばれる方法で鍛えることで不純物を取り除き、炭素の含有量を均一化するのです。
よく切れる刀を作るためには、鉄の硬さが重要です。
鉄は含まれる炭素の量が多いほど硬くなる性質があるので、炭素を定着させつつ、含有量を均一化させることでよく切れる日本刀が出来上がります。
3.優れた構造をしているから(重層構造)
日本刀の切れ味が良い理由の3つ目は、優れた構造をしているから(重層構造)です。
日本刀は、刀身の外側を覆い刃の部分を形作る「皮鉄」(かわがね)と、刀身の芯になる「心鉄」(しんがね)に構造が分かれています。
なぜ構造が分かれているのでしょうか?その理由は、硬い鉄だけで刀を作ってしまうと、柔軟性がないため衝撃に弱く、折れやすくなってしまうからです。
「皮鉄」(かわがね)は炭素量が多く硬い鋼で出来ています。一方、「心鉄」(しんがね)は炭素量が少なく、やわらかい鉄で出来ています。
それぞれ硬さの違う「皮鉄」(かわがね)と「心鉄」(しんがね)を別々に鍛えて、のちに組み合わせて一体化させることで、折れにくく丈夫で、よく切れる日本刀が完成するのです。
西洋の刀剣は、金属を液体にして型に流し込む作り方なのに対して、日本刀は「皮鉄」と「心鉄」の重層構造になっているため、切れ味が良く丈夫という訳ですね。
よく切れる日本刀として有名な刀
よく切れる日本刀は、どのように判断されるのでしょうか?
切れ味の証明は、罪人の死体を実際に切る「試し切り」です。1体両断できれば業物、2体なら良業物というように、1振でどのくらい切れるかで切れ味は判断されました。
切れ味の証は銘に刻まれているので、銘を見れば切れ味が良い日本刀か分かるのです。
松平家伝来の重宝
結城秀康の次男「松平忠昌」が、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」に差料とした1振は、越前藩32万石の松平家の重宝となりました。
江戸時代に誕生したこの日本刀は、特別重要刀剣として鑑定されています。
切れ味の証は、茎(なかご)に金象嵌で「二ッ筒落」という「裁断銘」が切られています。
二ッ筒落とは、罪人の死体を2つ重ねて切り落としたことを意味します。また、「裁断銘」は試し切りの結果を表した銘です。
銘 | 時代 | 鑑定区分 |
於武州江戸 越前康継(金象嵌) 慶長十九年寅七月十一日二ツ筒落 | 江戸時代 | 特別重要刀剣 |
葵の御紋が切られた名刀
越前康継は、徳川家康より技術の高さを認められ、1606年(慶長11年)に「康」の字を賜ります。
「葵」とは徳川家の家紋で、越前康継は「葵紋」を作品に刻むことを許されており、本刀の茎には、葵紋が彫られています。
葵紋が彫られている日本刀は、徳川家からのお墨付きを受けた出来の良い日本刀なのです。
また、「二胴」とあり、罪人の死体を2つ重ねて切断できたことも表しています。
所持者として銘に刻まれた「本多五郎右衛門」は、結城秀康の家臣であり作刀の支援者でもあった「本多成重」(ほんだなりしげ)の家来とされる人物です。
銘 | 時代 | 鑑定区分 |
(葵紋) 於武州江戸 越前康継 以南蛮鉄末 世宝二胴 本多五郎 右衛門所持 | 江戸時代 | 重要美術品 |
切れ味が名前の由来になった日本刀
八文字長義
八文字長義(はちもんじちょうぎ、はちもんじながよし)は長さ約78センチメートルの太刀です。
南北朝時代に備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工「長義」により打たれました。
この名前は、戦国時代の武将「佐竹義重」(さたけよししげ)の逸話が由来とされています。
佐竹義重は、その勇猛さから「鬼義重」と恐れられていた武将です。
北条氏政軍との戦いに出陣した際に、佐竹義重が長義の日本刀を振るって、頭上から一撃したところ、兜共々頭部が2つに割れて、馬の左右へ八の字形に落ちたことから、「八文字長義」と名付けられました。
一振りで硬い兜を割るだけでなく、乗っていた馬を両断する切れ味は凄まじいですね。
南泉一文字
「南泉一文字」(なんせんいちもんじ)は、鎌倉時代に福岡一文字派の刀工によって作られた打刀です。
足利将軍家が所蔵していた頃の逸話が名前の由来で、研磨のため壁に立てかけていたとき、猫が飛び掛かって刀に当たると猫が真っ二つに切れてしまったそうです。
この出来事と、唐(現在の中国)の禅僧「南泉普願」(なんせんふがん)の故事「南泉斬猫」(なんせんざんみょう)が結び付けられて、名付けられました。
「南泉斬猫」とは、南泉普願が子猫を奪い合って争う弟子達に「何か気の利いたことを言ってみなさい」と問いかけたところ、誰も答えられなかったために子猫を斬ってしまったという故事です。
南泉一文字は、足利家から「豊臣秀吉」の所有となり、のちに徳川家康に贈られました。
現在は「徳川美術館」(愛知県名古屋市)が所蔵しています。
波游兼光
「波游兼光」(なみおよぎかねみつ)は、2代「備前長船兼光」(びぜんおさふねかねみつ)が制作し、江戸時代に編纂された「享保名物帳」に所載された名刀です。
名前の由来は2つあります。
1つは、あるとき、船の渡し場で2人の客が喧嘩になり、そのうちのひとりが相手を「波游兼光」で斬り付けます。
斬り付けられた相手は川に飛び込み、泳いで逃げていきますが、泳いでいるうちに真っ二つになってしまった出来事です。
もう1つの由来は、刀身彫刻の竜が波間を泳いでいるように見えるためとも言われています。
このように、切れ味が非常に鋭いことが「波游兼光」という名前の由来です。
「波游兼光」は、上杉家に伝えられていましたが、のちに豊臣秀吉の甥「豊臣秀次」の所持となり、1595年(文禄4年)に豊臣秀次が自害する際に使用されたと伝えられています。
その後は、豊臣秀吉や小早川秀秋、立花宗茂など、名だたる武将の所有となりました。
切れ味最強の日本刀に関する逸話
最後に、切れ味が最強とされる日本刀に関する逸話を紹介していきますね。
童子切安綱
作者の安綱は平安時代の伯耆国(鳥取県西部)の刀鍛冶で、童子切安綱は「天下五剣」(てんがごけん)として位置付けられた名刀の1つです。
童子切安綱という名前は、源頼光が丹波国の大江山で酒呑童子(しゅてんどうじ)を斬ったことに由来しています。
酒呑童子とは、大江山に住む鬼王で、日本三大妖怪としても有名です。金棒や刀を奮い、配下の鬼と共に夜の平安京を荒らしまわり、京の都の姫君達を誘拐し、仕えさせたりその血肉を喰ったとされています。
酒呑童子を切ったことから、頼光の愛刀は童子切という号が付けられた訳です。
また、江戸時代に行われた「試し切り」で、6つの遺体を輪切りにし、遺体を積んでいた台座にまで食いこんだほどの切れ味を持っており、最強の日本刀と言えるでしょう。
鬼丸国綱
鬼丸国綱は、童子切安綱と同じ「天下五剣」の1振。北条時頼が招聘した粟田口六兄弟の末弟である国綱が打った日本刀です。
鎌倉時代に、北条時政は夢の中で鬼に苦しめられていました。ある晩、夢の中に翁が現れ、「自分は太刀国綱である。妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言いました。
翁の言うとおり、錆を拭き去ったところ、立てておいた国綱が倒れ、近くにおいてあった火鉢の足を斬りました。
時政が切り落とされた火鉢の脚を見てみると、驚いたことに、そこには悪夢に出てくる鬼が彫刻されていたのです。それ以来、夢の中で鬼に苦しめられることがなくなったのだとか。
鬼の悪夢を断ち切ったことから、この太刀は鬼丸国綱と呼ばれるようになりました。
当時、恐れられていた鬼や妖怪を切るという逸話が名前の由来になるのは面白いですよね。
へし切長谷部
南北朝時代に、山城の刀工である長谷部国重によって作られた打刀とされています。
へし切長谷部は、織田信長が、自分へ無礼を働いた観内という茶坊主を成敗した時の出来事が逸話として伝えられています。
無礼を働いた観内に織田信長が激怒したため、観内は手打ちを恐れて台所へ逃げてしまいました。
膳棚の下に隠れたところ、織田信長はへし切長谷部を抜き、棚ごと観内を「圧し切り」(刀身を押し当てて切ること)にして斬殺したのです。
刀を振り下ろして切ったのではなく、刃を押し付けただけで棚ごと人を切ってしまうという点が、へし切長谷部の切れ味の良さを表していますね。
長曽祢虎徹
打刀 長曽根虎徹(ながそねこてつ)は、新選組局長である近藤勇の愛刀としても有名な日本刀です。
切れ味が鋭い最強の日本刀をランク分けした江戸時代の書物 懐宝剣尺の中で、最もランクの高い最上大業物に分類されています。
「今宵の虎徹は血に飢えている」というセリフを聞いたことがある人も少なくないでしょう。
長曽根虎徹の逸話として、池田屋事件での出来事が知られています。
1864年(元治元年)に起きた池田屋事件では、尊王攘夷派の浪士10名以上と、新撰組の隊士数10名が激しく切り合いました。
この事件後、隊士達の刀剣のほとんどは、人を切ったことや鍔迫り合いをしたことにより壊れてしまいます。
しかし、長曽祢虎徹だけは折れず曲がることもなく鞘にスーッと入ったそうです。
この出来事により、長曽祢虎徹は頑丈で切れ味が他の日本刀とは違うとして、世間に名が知れ渡りました。
北谷菜切
北谷菜切(ちゃたんなきり)は、15世紀に作られたとされる日本刀(短刀)で、琉球王国伝来の宝剣です。
短刀なのに、最強の切れ味?と疑問に感じる人もいるでしょう。
しかし、北谷菜切にも最強の切れ味を示す逸話があります。
かつて琉球で農婦が赤子を斬殺するという事件が起きました。役人に捕まった農婦は「包丁で切る真似をしただけなのに赤子の首が切れてしまった」と話して、殺意が無かったことを主張したのです。
しかし、この話を信じない役人は試しにその包丁を山羊に向かって切るそぶりで振ってみたところ、本当に山羊の首が切れてしまったのです。
これにより晴れて農婦は無罪とされ、包丁は短刀に鍛え直されました。
この短刀こそが、北谷菜切です。
切る真似をしただけで、本当に首が切れてしまう刀とは、恐ろしい切れ味ですね。
現在は、那覇市歴史博物館に収蔵されています。
まとめ
今回は、日本刀の切れ味が良い3つの理由とよく切れる刀として有名な日本刀や逸話についても紹介してきました。
おさらいすると、日本刀の切れ味が良い理由は
- 反りがあることによって力が伝わりやすいから
- 炭素の含有量を均一にしているから
- 優れた構造をしているから(重層構造)
の3つです。
最強の切れ味を持つとされている日本刀には、逸話や名前に由来があるので、知っていくと面白いですよ。
この記事を読んで、日本刀の魅力が少しでも伝われば嬉しいです。